第1章 横浜市の概要 本章では、本市の文化財の保存・活用を考えるための前提となる、自然的・地理的環境と、社会的状況、歴史的背景について 概観します。 1節 自然的・地理的環境 1 位置 本市は関東平野の南西部、神奈川県の東部に位置し、北は川崎市、西は大和市・藤沢市・東京都町田市、南は鎌倉市・逗子市・ 横須賀市に接しており、東は東京湾に面しています。面積は約435.95キロ平方メートルで、神奈川県全体の面積の約18%を 占めています。 図1 横浜市の位置(地図) 2 地形・地質 市域には、北西部に多摩丘陵、南部に三浦丘陵に連なる丘陵部があり、56の河川が流れています。坂や傾斜地が多く起伏に 富んだ複雑な地形となっており、広域的に連続した水・緑環境を有しています。また、本市の地形は、丘陵地、台地、低地 及び埋立地に分けられます。海岸部には埋立地が造成されており、海岸線のほとんどが人工的な地形に改変されています。 現在確認できる市域で最古の地層は、約250万年前.120万年前に形成された「上総層群」です。上総層群はかつて関東平野が 海だった頃に、海底の砂や泥が堆積してできた海成層群で、東京湾を渡って千葉県まで広がっています。比較的硬い地層で あるため、一般的に市内の建築物の支持層となっています。海成層では貝化石が発見されることがあり、上総層群の1つで、 主に金沢区から鎌倉市にかけて分布する野島層は、良好な状態の貝化石が発見されており、野島海岸は、市内で唯一の 自然海岸です。 上総層群は、約60万年前以降の気候変動による海面の下降と上昇の繰り返しで形成された地層に不整合におおわれています。 海面の下降時には浸食谷が、上昇時には溺れ谷が堆積物により埋もれ、その上を火山灰が覆うサイクルを繰り返しました。 約8万年前以降には、砂礫層と横浜周辺の「富士山」と「箱根山」等の火山灰が堆積した新期ローム層(武蔵野ローム、 立川ローム)が形成されました。約2万年前には最終氷期最盛期以降の海面上昇によりに沖積層が形成され、河川の下流域や 海岸低地などで沖積低地を構成しています。 3 水系 横浜市には、一級河川が9河川、二級河川が24河川、準用河川が23河川、合計56の河川が流れます。 その総延長は約215kmになり、それらの河川は4つの水系とその他の水系に分けられます。 4 植生 市域では、土地本来の植生である自然草原や自然林は、全体の1%を下回っており、コナラ林を中心とする二次林は7.1%、 スギやヒノキを中心とする植林は3.3%となっています。市内でみられる緑被地の大半は、自然植生になんらかの形で人間の 手が入った代償植生であると言えます。また、市街地等は全市の74.1%を占めています。 本市には天然記念物に指定されている植物(樹木・樹叢)が15件(県指定6件、市指定9件)あります。また、潤いのある 市民生活の確保と都市の美観風致の維持のため、古くから街の象徴として親しまれ、故事来歴などのある樹木を「名木古木」 として指定しています。 図1-5 金沢八景御伊勢山・権現山の樹叢(市指定)の写真 図1-6 正安寺のイヌマキ(市指定・名木古木)の写真 5 動物 市域では主に温帯の動物が多く確認できます。市域の大部分が低い丘陵と台地から成り立っているにも関わらず、動物の生態や 環境によって生息状況は様々です。 例えば、北部だけに分布するチョウとして、クロヒカゲやヒメキマダラセセリ、ホシミスジが挙げられます。他方、南部にしか 分布していないトンボとして、タカネトンボやコオニヤンマが挙げられます。 また、以前は関東地方に広く分布していたミヤコタナゴ(国指定)は、1976(昭和51)年に港北区勝田町(現・都筑区)の 権田池で生息が確認されたのを最後に、自然水域から姿を消してしまいました。本市では、1976(昭和51)年の権田池での 発見後に緊急避難させ、国や県、有識者の意見を聞きながら、保護・増殖の取組を進めています。 図1-7 ミヤコタナゴ(国天然記念物)の写真 2節 社会的状況 1 人口 本市の人口は、2024(令和6)年2月1日現在で3,766,718人となっています。第1回国勢調査が実施された1920(大正9)年は 人口422,938人、世帯数95,243世帯でしたが、その後増加が続き、1951(昭和26)年に人口100万人を超え(1,001,860人)、 1968(昭和43)年に200万人を超え(2,047,487人)、1986(昭和61)年に300万人を超えています(3,049,782人)※3。 しかし、近年は人口増加の幅が小さくなってきており、多い時には年10万人を超えて増加していましたが、2021(令和3)年 には4,257人の減少となりました※4。 また、2020(令和2)年の国勢調査を基に行った横浜市将来人口推計では、今後も減少が続き、2040(令和22)年に363万人、 2065(令和47)年に315万人まで緩やかに減少していくことが見込まれています。 本市の人口の年齢層別割合をみると、少子高齢化が進んでいることが分かります。2012(平成24)年では15歳未満が13.1%、 65歳以上が20.4%でしたが、2023(令和5)年現在では15歳未満が11.3%(1.8ポイント減少)、65歳以上が24.6% (4.2ポイント増加)となっています。 外国人人口は、 2023(令和5)年1月1日現在で約11万人と総人口の2.8%を占めており、長期的に増加が続いています。 政令市の中では、大阪市に次いで2番目に多くなっています。 脚注※3 いずれも、国勢調査結果及びそれを基に自然増減と社会増減を加減して推計した人口による数値。 脚注※4 横浜市統計書より、各年10月1日時点の人口増減を参照した。 図1-8 横浜市の人口の推移と将来推計(各年10月1日現在) 出典:国勢調査結果(2020年まで)、横浜市「今後の人口の見通し推計(令和3年度)」(2025年から) ※横浜市「今後の人口の見通し推計 2021(令和3)年」は、2020(令和2)年国勢調査結果を基準人口とし、2021(令和3)年  12月までに公表されている数値を、「横浜市将来人口推計」(2017(平成29)年度)に簡易に反映した推計値(中位推計)。 ※1995(平成7)年から2020(令和2)年の年齢層別人口の値は、「年齢不詳」を按分したもの。 図1-9 横浜市の年齢層別人口比(各年1月1日現在)出典:横浜市統計書 2 市域の変遷 1889(明治22)年に市制が施行された当時、5.4キロ平方メートルだった市域の面積は、1939(昭和14)年の第6次市域拡張で 400.97キロ平方メートルに広がり、その後、海岸沿いの埋め立て等により、2022(令和4)年3月現在、435.95キロ平方メートル となっています 図1-10 市域の変遷図 出典:市政記録(2022年版) 3 産業 1859(安政6)年の開港以来、横浜港は日本の物流及び生産の拠点として、日本の経済の発展を支えるとともに、都市横浜の発展 にも大きな役割を果たしてきました。 本市の産業は、京浜工業地帯の一翼を担う製造業を中心として発展してきましたが、産業構造のサービス化の進展に伴い、近年で は、市内総生産に占める第3次産業の構成比が80%を超えています。一方で、製造業や建設業からなる第2次産業の構成比は13% から15%台で推移しています。 図1-11 横浜港の主要輸出入品目と構成比 出典:横浜税関「横浜開港150年の歴史 港と税関 」 図1-12 市内総生産の産業分類別構成比推移 出典:横浜市ホームページ「市民経済計算」 4 観光 横浜を訪れる観光入込客数・観光消費額 買い物や飲食をはじめ、様々な観光コンテンツを持つ横浜には毎年多くの観光客が訪れています。 2019(令和元)年には観光入込客3,634万人、観光消費額は過去最高となる3,762億円を記録しましたが、新型コロナウイルス感染 症の影響を大きく受け、2020(令和2)年は観光入込客1,629万人、観光消費額1,050億円となりました。その後は順調に回復しつ つあり、2022(令和4)年は観光入込客2,922万人とコロナ禍前の8割程度、観光消費額は2,595億円とコロナ禍前の7割程度まで 回復しました。 図1-13 観光入込客数(実人数)及び観光消費額の推移のグラフ(出典:横浜市観光動態消費動向調査(各年度)) 観光客の訪問先 多くの商業施設や音楽ホール等が集積し、夜景も楽しめる「みなとみらい・桜木町地区」をはじめ、山下公園や開港以来の歴史的 建造物が多く残り、世界最大級のチャイナタウン・横浜中華街を有する「山下・関内・伊勢佐木町地区」、西洋館や外国人墓地な ど異国情緒あふれる街並みや名勝庭園三溪園など歴史や自然を楽しめる「山手・本牧・根岸地区」、アウトレットモールや水族館 などの観光施設を有する「磯子・金沢地区」など、様々なエリアに多くの観光客が訪れています。 また、光と音楽の演出により、都市の新たな夜景をつくりだす創造的イルミネーション「ヨルノヨ」をはじめとする観光イベント にも多くの人が訪れています。コロナ禍前の2019(令和元)年には、観光イベントで年間1,790万人の方が横浜を訪れました。 観光客の特徴 コロナ禍前は、横浜を訪れた観光客の約4割が横浜市民を含む神奈川県内在住者で、次いで東京都や埼玉県、千葉県などが多く、 首都圏で全体の約7割を占めていました。2022(令和4)年度の調査では横浜市民を含む神奈川県内在住者が約5割を占め、 東京都や埼玉県、千葉県などの近県在住者も含む首都圏が全体の約6割となりました。また、横浜を訪れる目的は、「飲食」が 最も多く、次に「遊園地・テーマパークなどのレジャー」、「買い物」が上位となっています。 図1-14 来訪の目的のグラフ(出典:令和4年度横浜市観光動態消費動向調査) 5 交通 交通網の整備状況 1960年代以降、人口の急激な増加と並行して鉄道や道路の交通網の整備が進められてきました。 本市の鉄道計画は、国土交通省の交通政策審議会答申第198号「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」(平成28年 4月)に基づいて取り組んでいます。地域の成長に応じた鉄道ネットワークの充実に資するプロジェクトとして、高速鉄道3号線 の延伸、横浜環状鉄道の新設、東海道貨物支線の貨客併用化が位置付けられています。 道路交通網をみると、幹線道路として、東名高速道路、首都高速道路、横浜横須賀道路等の自動車専用道路や、臨海部を中心とし た3本の環状道路、市中心部と郊外部とを結ぶ10本の放射道路が整備されています。また、旧東海道とほぼ同経路で国道1号、 国道15号が市域を横断しています。道路交通網の整備に伴い、市内の路線バスだけでなく、横浜駅と羽田空港等を結ぶ高速バス 等、市外へのバス路線も充実するようになりました。 図1-15 市内鉄道ネットワークの整備と構想路線の図(出典:横浜都市交通計画より作成) ※図中の「計画路線」は、国土交通省において設置されている「交通政策審議会」の小委員会(「東京圏における今度の 都市鉄道のあり方に関する小委員会」)で審議され、2016(平成28)年4月の第198号答申で位置付けられた路線を指す。 6 文化財関連施設 文化財を所管する教育委員会では、時代領域ごとに設置された、横浜市歴史博物館、横浜開港資料館、横浜都市発展記念館、 横浜ユーラシア文化館、横浜市三殿台考古館などの文化財施設を管理・運営しています。なお、この他にも、横浜市史資料室、 横浜みなと博物館、横浜美術館、三溪園(三溪記念館)など、市民や来訪者が横浜の歴史文化に触れることができる施設が あります。 横浜市歴史博物館 「横浜に生きた人々の生活の歴史」をテーマに、1995(平成7)年に開館。常設展示室では横浜3万年の通史を紹介するほか、 市域の歴史・考古・民俗・美術をテーマにした企画展、講座やワークショップ等を実施。隣接地には「大塚・歳勝土遺跡」 (国指定)を中心とした遺跡公園があり、弥生時代の環濠集落と墓地を復元・公開。 横浜開港資料館 開港100年を記念して編纂された『横浜市史』の収集資料を基礎に、 1981(昭和56)年6月2日の開港記念日に開館。 1854(安政元)年に日米和親条約が締結された場所にあり、旧館は、旧イギリス総領事館(市指定)。19世紀半ばの開港期 から関東大震災に至る時期を中心とした資料を収集・展示するとともに、閲覧室で広く資料を公開。 横浜都市発展記念館、横浜ユーラシア文化館 旧横浜市外電話局(市認定)の建物を保存・活用し、 2003(平成15)年に開館。 横浜都市発展記念館は、現在の横浜市の原型が形成された昭和戦前期を中心に、「都市形成」、「市民のくらし」、 「ヨコハマ文化」の3つの側面から、都市横浜の発展のあゆみをたどる施設。 横浜ユーラシア文化館は、東洋学者江上波夫氏から横浜市に寄贈された資料を中心に、ヨーロッパとアジアを合わせた ユーラシア地域の歴史、考古、美術、民俗資料、関連文献を多数所蔵。常設展示のほか、企画展示、講座、コンサートなどを 実施。 横浜市三殿台考古館 縄文・弥生・古墳の3時代にわたる貴重な集落跡である三殿台遺跡(国指定)を保護するとともに、住居跡や各時代の復元住居 を整備。三殿台遺跡から出土した遺物の展示や、火起こし体験や勾玉づくりなどの体験教室も実施。 横浜市八聖殿郷土資料館 法隆寺夢殿を模した三層楼八角形の建物で、熊本県出身の政治家安西謙蔵が建立し、1933(昭和8)年に完成。 1973(昭和48) 年に、横浜市八聖殿記念資料館として開館し、幕末から明治にかけての本牧、根岸の写真や、市内で使用されていた農具を 中心に展示。 埋蔵文化財センター 埋蔵文化財に関する調査・研究等を行う機関。発掘調査報告書の刊行や調査成果の展示、公開等、埋蔵文化財の保護と継承に ついての理解を深める活動を行っている。常設展示室では、市内の遺跡から出土した遺物の一部を展示。 図1-16 各施設の所在マップ ※教育委員会が所管する文化財施設の他、本計画に記載した本市所有等施設、博物館法に基づく登録博物館を記載。 ※馬の博物館は2024年1月29日より休館中。各施設の開館日等は各施設のホームページ等で確認してください。 3節 歴史的背景 1先史から原史時代(旧石器・縄文・弥生・古墳時代) 旧石器時代の狩猟生活 冷涼な氷期にあった旧石器時代は、モミなどの針葉樹林を中心とした植生の中、人々は遊動し、石を打ち欠いて製作した石器を 利用してナウマンゾウなどの大型獣を狩猟していました。横浜市域でも石器を製作した痕跡や、河原石を集積して調理を行った 施設の痕跡(礫群)が発掘されており(都筑区権田原遺跡)、最古のものは約3万年前に降灰した姶良 Tn火山灰 より古い地層からナイフ形石器が見つかっています(保土ケ谷区明神台遺跡、旭区矢指谷遺跡)。 縄文時代のムラと営み 縄文時代への移行期には、気候が温暖となり、堅果類が実る落葉広葉樹林が広がり始めるほか、イノシシなどの中・小型獣が 増え、これらを調理するために土器が使用され始めました。本市では、縄文時代草創期(約1万4,000年前)の隆線文土器や、 有舌尖頭器、石鏃が出土しており、旧石器時代から縄文時代へと移り変わる時期の狩猟活動をうかがい知ることができます (都筑区花見山はなみやま遺跡、緑区長津田遺跡群)。 縄文時代早期(約1万年前)には数件の竪穴住居跡で構成される集落がみられるようになり、市域でも定住生活が始まります (都筑区大塚遺跡)。早期後半段階になると、野営の炉穴や落とし穴による狩猟場の遺跡が多数発見され(緑区霧ケ丘遺跡)、 平潟湾ではマガキを採集していたことが確認できます(金沢区野島貝塚(市指定))。縄文時代前期(約7,000年前)には、 気候の温暖化により海水面が上昇し、海岸線が内陸へと進入しました(縄文海進)。鶴見川流域や大岡川流域、金沢区域の 平潟湾など、現在は陸地となっている市域の広い範囲で海進がみられ、その台地上には貝塚が造られます。貝塚からはハマグリ などの貝類のほかに、スズキやイノシシなどの骨もみられます(都筑区北川貝塚、茅ケ崎貝塚)。 縄文時代中期(約5,400年前)になると、発見される遺跡数が急激に増加し、検出される竪穴住居跡の軒数も増えます。 また、数十軒の竪穴住居跡が環状に巡り、中央には墓域を有する大規模な環状集落が形成されます(都筑区神隠丸山遺跡、 三の丸遺跡など)。 しかし、縄文時代後期(約4,400年前)に入ると、寒冷化の影響もあり、遺跡数・集落の規模が縮減していきます。続く 縄文時代晩期には、市域の遺跡はごく僅かとなり、狩猟採集を中心とした社会が終焉を迎えます(金沢区称名寺貝塚、 都筑区華蔵台遺跡)。 図1-17 花見山遺跡出土遺物の写真 図1-18 野島貝塚の写真 稲作の伝播 約2,800年前、朝鮮半島から九州北部へ稲作が伝播し、全国に農耕文化が普及する中、横浜市域に本格的に波及したのは 弥生時代中期後半(約2,200年前.2,000年前)でした(磯子区三殿台遺跡など)。周囲に大規模な空堀を巡らせた環濠集落が 台地縁辺に多数成立し(都筑区大塚遺跡、権田原遺跡、折本西原遺跡など)、そのそばに方形周溝墓群が造られ (都筑区歳勝土遺跡)、環濠集落の人口が増加するにつれて、周囲に小集落が成立するようになりました。 図1-19 三殿台遺跡(復元)の写真 図1-20 大塚遺跡(復元)の写真 図1-21 歳勝土遺跡(復元)の写真 鉄器の普及と古墳の築造 信州ルートで日本海側からもたらされた鉄器の普及は、生産力を向上させ、人口を急増させました。3世紀中葉、古墳時代前期 以降には、地域社会の階級分化や政治的統合が始まりました(港北区日吉台遺跡群など)。横浜市域では、日吉地域の首長が他 地域の中小首長を統合したとみられ、市域で唯一の大型前方後円墳が造られています(港北区観音松古墳)。また、河川の流域 ごとに中小の地域首長が市域を治めたとみられ、各地に古墳が造営されました(青葉区稲荷前古墳群(県指定)など)。 6世紀後半以降、横浜市域では崖面に直接墓室を穿つ「横穴墓」の形式で群集墳(小規模古墳の集合体)が造営されました (青葉区市ケ尾横穴墓群(県指定)など)。 7世紀末から8世紀初頭には古墳や横穴墓は築造されなくなり、流域ごとの政治領域は、やがて古代の「郡」へと引き継がれ ました。 図1-22 稲荷前古墳群の写真 図1-23 市ケ尾横穴墓群の写真 2 古代(飛鳥時代、奈良時代、平安時代) 有力氏族が連合して政治権力を奮ったヤマト王権は、7世紀半ば以降、律令(律は刑罰法、令は行政法)に基づく中央集権国家 としての体制を整えていきました。地域社会の再編成に伴い設置された「評」は、8世紀には「郡」となり、「国.郡.里」の 体制が構築されました。中央から派遣された国司と、地域の首長が任命した郡司が政治を担い、郡の役所は郡家と呼ばれました。 横浜市域は、武蔵国都筑郡・久良郡を中心に、武蔵国橘樹郡・相模国高座郡・鎌倉郡の各一部を加えた範囲に及んでいます。 都筑郡の郡家は長者原遺跡(青葉区)にその跡が残されており、久良郡の郡家は弘明寺(南区)周辺に所在したとみられます。 9世紀以降、東国(畿内から東方の地域)で武装蜂起が相次ぐ中、国司として派遣された中・下位貴族層出身者の中には、 任期終了後に土着し、力を持つ者もいました。平安時代中期(10から11世紀)には、武力による紛争調停などにより平氏や源氏が 力を伸ばし、源氏は源頼義・義家父子の時代に東国武士団の礎を築きました。 3 中世(鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代) 都市鎌倉の整備と横浜 治承・寿永の内乱を経て東国の支配権を固めた源頼朝は鎌倉に幕府を開き、都市の整備が進みました。執権北条氏は鎌倉市街地と 外部とをつなぐ道(切通)や港湾の整備を行い、とりわけ鎌倉の東端にあたる六浦津(金沢区)と鎌倉を結ぶ朝夷奈切通(国指定) は、関東内陸部や房総半島よりもたらされた物資を鎌倉へ運ぶ重要な交通路となりました。 鎌倉とその周辺地でみられる特徴的な墳墓「やぐら」は、鎌倉に近い六浦地区を中心に、六浦道や鎌倉街道などの当時の街道沿い に多く分布しています。 図1-24 朝夷奈切通の写真 海外文化の流入 中国大陸との交易が進む中、経典や陶磁器などの中国製品や様々な文化が鎌倉に伝来しました。執権北条氏の一族である金沢北条 氏は、一族の菩提寺として称名寺(国指定)を建立し、国内外の典籍や美術品など多くの貴重な品々を納めました。これらは後に 「金沢文庫」と呼ばれる一大コレクションとなり、国宝である 「絹本著色北条実時像」、「称名寺聖教」といった絵画・典 など、多くの文化財が現在に残されています。また人的交流も盛ん に行われ、中国と日本の僧侶による学問の拠点としても発展しました。14世紀には伽藍や庭園の整備、瀬戸橋の架橋が行われ、 金沢・六浦地域は鎌倉と一体的に発展し、最盛期を迎えました。 図1-25 称名寺境内籍 神奈川湊の発展と戦乱の世のはじまり 1333(元弘3)年の鎌倉幕府滅亡後、室町幕府下でも引き続き鎌倉は東国の政治の中心となり、称名寺が足利尊氏の祈祷寺として の地位を確立したほか、古東海道に面する神奈川湊が繁栄しました。また、市域の耕地開発が進み、「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」 (国指定)には谷戸田を開いた百姓の名が記されています。この頃初めて「横浜村」の地名が文献資料に登場し始めました。 しかし鎌倉公方と室町幕府将軍や関東管領との対立で政治的緊張が高まり、鎌倉公方が鎌倉を離れると関東一帯で戦乱が続き、 各地で城郭が築かれました。観応の擾乱を契機とする武蔵野合戦では、南朝方の新田義宗・義興軍が鎌倉を攻め、足利尊氏が 「狩野川城」(神奈川城、後に権現山城)に逃れ、南朝方に味方した水野致秋が鶴見宿から関戸に向かって戦いに参加しました。 脚注※ 徳川幕府によって再整備される東海道以前の道を指し、鎌倉道(下道)に重なる。 小田原北条氏の支配 15世紀末、小田原北条氏が相模国に侵攻し、武蔵国・相模国を支配していた山内・扇谷両上杉氏との権現山の合戦(1510(永正 7)年)を経て江戸城を奪取すると、広く関東一帯を支配しました。横浜市域は、北条氏のもとで小机城(港北区)と玉縄城 (鎌倉市)のもとに編成されました。 図1-26 小机城跡の写真 4 近世(江戸時代)   陸路と海路が交差する江戸の玄関口 豊臣秀吉の死後、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は江戸幕府を開き、豊臣氏を滅ぼした大坂の陣以降、長く泰平の時代となりました。 日本の政治・文化・経済の中心として繁栄した江戸は、人口100万人を超える世界最大の都市となりました。江戸から各地へと向かう 街道も整備され、江戸と上方(京都・大坂)を結ぶ東海道は重要な幹線道路となり、横浜市域には神奈川宿、保土ケ谷宿、戸塚宿と いう3つの宿場が置かれました。江戸日本橋から約42・に位置する戸塚宿は、朝、江戸を発った当時の旅人の最初の宿泊地として 最適でした。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に出てくる弥次郎兵衛と喜多八も、初日に宿泊しています。また、矢倉沢往還、 中原街道も整備され、東海道など幹線道路の脇街道としての役割を果たしました。 海路は、商業都市大坂と江戸を結ぶ太平洋海運が発展し、横浜市域の六浦・神奈川の湊が中世から引き続き重要な役割を果たしていま した。湊であり宿場でもあった神奈川は、陸と海の交差点として多くのものや人が集散し、海を望む景勝の地としても栄えました。 金沢も、江戸や房総、三浦半島を結ぶ船が発着する、東京湾内の海上交通の結節点として繁栄しました。 江戸時代後期になると庶民の旅が盛んになり、これらの陸路や海路を通って旅人たちが寺社や名所を訪れました。矢倉沢往還は大山道 としても知られ、大山参詣や富士参詣の人々で賑わったといわれます。また東海道からも、金沢八景と称される景勝地で知られた金沢 へ向かう金沢道や鎌倉道、大山道などが分岐し、現在でも道標が残っています。宿場や湊には、江戸をはじめ各地から文化人が訪れ、 狂歌師の太田南なんぽ畝が神奈川宿の旅籠「羽沢屋」を詠んだ歌が残されています。宿場やその周辺に住む人々は、訪れた文化人と 交流したり、地元での和歌会などの活動を活発に行ったりしました。こうした人々によって建立された芭蕉句碑や筆子塚(市登録) などが、街道沿いを中心に多数残されています。 脚注※景色や風景が優れていて、観光するのに適した土地。 江戸時代の市域の村々 横浜市域の村々の大半は、江戸幕府の直轄地と旗本知行所であり、陣屋を構えた大名は武州金沢藩(六浦藩)米倉氏のみでした。 幕府直轄地を治める代官や知行所を治める旗本などの村の領主は江戸に居住し、村への命令や村からの届出・訴願は文書を介して 行われていたことが、関家住宅(都筑区・国指定)や飯田家住宅(港北区・市指定)などに所蔵されていた文書からうかがわれます。 村役人は、このような文書の作成とやり取り、年貢の納入などを行い、村の取りまとめと領主支配の末端を兼ねていました。 図1-27 関家住宅の写真 図1-28 飯田家住宅の写真 海岸部の新田開発 江戸時代、横浜市域の新田開発が進みました。1656(明暦2)年から1667(寛文7)年にかけて、江戸の商人吉田勘兵衛によって 入海が干拓されて開発された吉田新田が特に大きく、現在の市域にすると大岡川・中村川・JR根岸線に挟まれたエリアで、 広さは約115万5,000平方メートルにもなりました。ほかにも、帷子川河口や金沢区の平潟湾・内川入江、吉田新田の地先の入海 などが新田として開発され、いずれも近代以降は住宅地や繁華街として発展していきました。 図1-29 吉田新田開墾前図(吉田興産株式会社提供) 図1-30 吉田新田開墾図(吉田興産株式会社提供) 5 近代(明治期・大正期) 横浜開港 19世紀、産業革命を経た西欧諸国は海外に市場を求めて進出し、日本沿岸にも相次いで外国船が来航しました。江戸幕府は海岸部に 台場(砲台)を築造して海防強化に努め、神奈川沿岸でも神奈川台場が築造されました。 1853(嘉永6)年にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航し、最新鋭の軍艦を背景に開港を要求、翌年の再来航時の 交渉により、横浜開港資料館敷地内に現存する「玉楠」(市登録)のそばで、日米和親条約が締結されました 。1858(安政5)年 にアメリカと日米修好通商条約を結ぶと、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと同様の条約を結び、神奈川を含む5港の開港 が決まりました。 神奈川は、対岸の「横浜村」が開港場と定められ、開港期日の1859年7月1日(安政6年6月2日)を目指し、開港場の建設が 始まりました。開港場は運上所(税関)を中心に、東側(現在の山下町一帯)に外国人居留地、西側に日本人市街が建設され、 商人を中心に国内外から集まった人々が住むようになりました。居留地の商業地区に各国の領事館や外国商館が建ちならび賑わう 様子は、当時大量に製作された「横浜浮世絵」にみることができます。1867(慶応3)年には、山手地区が居留地に編入され、 居留外国人の住宅地区として発展しました。居留地を通じて、衣食住の様々な分野で海外の生活文化がもたらされ、横浜を発祥 とする多くの「もののはじめ」が誕生しました。 図1-31 玉楠の写真 図1-32 日米和親条約締結の碑の写真 開港場のまちづくり 開港当初の波止場は2本の平行な突堤でしたが、1866年10月(慶応2年9月)の大火の後、東側の突堤が防波堤の役割を果たす ために「象の鼻」のように湾曲した形状となりました。 1871(明治4)年に欧米諸国へ派遣された岩倉使節団も、この「象の 鼻」から出港しました。「象の鼻」は、関東大震災で防波堤の大部分が沈んでしまったものの、2009(平成21)年の開港150周 年事業で、明治20年代の形状に復元整備されています。 明治期に入り、居留地の整備は英人技師ブラントンに引き継がれました。防火性能を高めるため、ブラントンは居留地と日本人 市街とを隔てる防火帯(現在の日本大通り)を設計し、大火で焼失した港崎遊郭の跡地に横浜公園(国登録)を配しました。 公園と港を日本大通りで結ぶことで、居留地と日本人市街のゾーニングはより明確になり、現在の関内地区の骨格が完成しま した。また、明治初年には、実業家高島嘉右衛門の活躍などにより、鉄道・街路・ガス灯・上下水道など近代的な都市インフラ が導入されました。 図1-33 横浜海岸通之図(象の鼻) 港湾都市の基盤整備 横浜港は、明治10年代まで国内最大の輸出入総額を誇る港となり、輸出に関しては生糸をほぼ独占、輸入に関しては綿製品・ 毛織物・砂糖などの輸入拠点となりました。生糸貿易で財をなした実業家の一人である原富太郎(原三溪)は、古美術の収集 や新鋭作家への支援をするとともに、京都や鎌倉などから移築した古建築を配置した日本庭園を三溪園(国指定)として1906 (明治39)年に開放し、横浜の美術・文化の発展に寄与しました。三溪園には、旧燈明寺三重塔・旧東慶寺仏殿・臨春閣など の国指定重要文化財10件や、鶴翔閣(旧原家住宅)などの横浜市指定有形文化財3件が現存しています。 1889(明治22)年4月、市制が施行され、横浜市が誕生しました。市域は約5.4k・、人口は約12万人でしたが、段階的な市域 拡張により、面積・人口ともに増加していきました。横浜には、当時の在日外国人の半数にあたる約5,000人が居住しており、 横浜在住外国人人口の6割以上を占めた中国人により、現在まで続く中華街が形成されました。 明治20年代、英人技師パーマーの設計により、鉄製桟橋(現在の大さん橋国際客船ターミナル)と防波堤の建設を中心とした 第一期築港工事が進められました。1891(明治24)年には横浜船渠株式会社が設立され、船舶を修繕するための石造の船渠 (ドック)が築造されました。現在、第一号ドック(1898(明治31)年完成。現在、帆船日本丸が係留、国指定)、第二号 ドック(1896(明治29)年完成。現在のドックヤードガーデン、国指定・市認定)が現存しています。 続く第二期築港工事では、大型の船舶が直接接岸できる岸壁の建設が計画され、1914(大正3)年に新港埠頭(現在の赤 レンガパーク一帯)が完成しました。埠頭内には鉄道の貨物線が引き込まれ、ハンマーヘッドクレーン(現在、ハンマー ヘッドパークに所在)などを備えた近代的な港湾設備は、当時「東洋一」と呼ばれました。1909(明治42)年には、当時 埋め立て工事が進んでいた新港埠頭で横浜開港50年祭が開催され、記念事業として開港記念横浜会館(現在の横浜市開港記念 会館、国指定)が建設されました。 図1-34 三溪園の写真 図1-35 旧燈明寺三重塔の写真 図1-36 旧横浜船渠株式会社第一号船渠の写真 図1-37 旧横浜船渠株式会社第二号船渠の写真 図1-38 横浜市開港記念会館の写真 関東大震災による壊滅 1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生し、マグニチュード7.9の激震と火災の発生により、開港以来の街並みは一日 にして灰燼に帰しました。当時人口45万人だった横浜市では、35,000棟を超える家屋が倒壊・焼失し、死者・行方不明者は 26,000人を数えました。しかし、前述の開港記念横浜会館や、旧横浜正金銀行本店本館(現在の神奈川県立歴史博物館、 国指定)のように、耐震技術が導入されていた煉瓦造建築の中には、大きな被害を受けながらも倒壊を免れ、現存するもの もあります。 図1-39 旧横浜正金銀行本店本館の写真 6 現代(昭和期以降) 震災復興と「大横浜」建設 関東大震災後、横浜市は政府による帝都復興事業の対象として、土地区画整理・街路整備・公園新設などからなる復興事業 が進められ、現在につながる都市の骨格が形づくられました。関内地区では道路拡幅を中心とした土地区画整理が実施され、 山下町の海岸部では、震災で生じた瓦礫を埋め立てて、1930(昭和5)年に山下公園(国登録)が開園しました。 野毛山では、実業家の原・茂木両家の別邸跡地をもとに、野毛山公園が新設されました。現在、横浜港周辺に残る歴史的 建造物の多くは、この震災復興期に建設されたものです。横浜の震災復興事業を軌道に乗せたのは、1925(大正14)年5月 に横浜市長に就任した有吉忠一で、 1927(昭和2)年6月2日、復旧工事を終えた開港記念横浜会館で開催された 「大横浜建設記念式」にて、横浜市が生糸貿易に依存していた体質を脱却し、本格的な工業都市へと発展するための方策 として、「横浜港の拡充」、「臨海工業地帯の造成」、「市域拡張」の3つの柱からなる「大横浜」建設事業を宣言しました。 図1-40 山下公園の写真 海と陸に広がる横浜 1927(昭和2)年、横浜港では外防波堤の建設工事とともに、子安から生麦にかけて地先の市営埋立事業が始動しました。 1937(昭和12)年には外防波堤の築造及び市営埋立事業が完成し、日産自動車・日本電気工業などの新興企業が埋立地に 進出、横浜港は従来の商業港としての機能に加え、工業港としての機能も合わせもつようになりました。他方で、 1927(昭和2)年には、隣接する9町村を編入し(第3次市域拡張)、約3.6倍の市域となりました。 1939(昭和14)年 の第6次市域拡張を経て、周辺の郡部(橘樹郡・都筑郡・久良岐郡・鎌倉郡)を市域に取り込み、現在とほぼ同じ市域に まで広がりました。加えて、震災後の新しい交通計画の中で横浜駅が現在地に移転し、現在の東急電鉄・相模鉄道・ 京浜急行が乗り入れることで、横浜駅を中心とした放射状の鉄道網が形成されました。鉄道会社は乗客誘致のために 郊外部の沿線開発を進め、大規模遊園地として開園した花月園(鶴見区)や、沿線に点在する海水浴場・観光地への 利便性を高めました。このように昭和戦前期を通じて、郊外部に住宅地や農村・工場が包含された複合的な広域都市 として発展していきました。 戦後の復興 1945(昭和20)年5月の大空襲で再び焼け野原となった市の中心部では、終戦後、焼け残った施設の多くが占領軍によって 接収され、戦災復興は他都市と比べて大きく遅れました。 1952(昭和27)年4月にサンフランシスコ講和条約が発効すると、 ようやく接収解除が進み始めますが、土地区画を戦前の「原型」に復旧する方針から、復興はスムーズに進まず、柵で 区画され草が生い茂った空き地が広がる景観は、「関内牧場」と呼ばれました。また、関内・関外地区は、戦災復興建築 として数多くの防火帯建築が建設されました。昭和30年代以降、「国際港都建設」をキーワードに、港湾施設の拡充と 埋め立てによる臨海工業地帯の造成を大きな柱として、戦後横浜の都市づくりが進められました。1958(昭和33)年には、 横浜開港100周年の記念事業が開催され、高度経済成長を迎えた横浜を盛り上げました。同年1月、記念事業の1つとして 『横浜市史』の刊行がスタートし、翌1959(昭和34)年には、港町1丁目に村野藤吾氏の設計による7代目市庁舎が 建設されました。 あらたな都市づくりへ 戦後横浜の都市づくりを一層進めたのが、1963(昭和38)年に横浜市長に当選した飛鳥田一雄で、米軍施設の接収解除に 精力的に取り組むとともに、1965(昭和40)年にあらたな都市づくりとして、都心部強化、金沢地先埋立、 港北ニュータウン建設、高速鉄道建設、高速道路網建設、横浜港ベイブリッジ建設からなる「六大事業」の構想を発表 します。六大事業は、互いに関連した都市整備事業により横浜の都市構造を将来的に強固にすることを目的に、 庁内横断的に設置された企画調整室が中心となり実施されました。六大事業で実現された街並みは、現在も市民の 暮らしを支えています。